「光る君へ」で表現されているように
紫式部の娘、藤原賢子。
藤原賢子は宮中での出世により「大弐三位(だいにのさんみ)」
と呼ばれるようになりました。
この称号は、彼女が女房として最高位を意味します。
もちろん紫式部の娘ですから、
優秀な女性であることは想像にかたいのですが、
それにしても、大出世。
ここでは藤原賢子の出世について
母の影響や宮廷での地位、結婚、
そして政治的支援に焦点をあてて調べました。
藤原賢子は紫式部の影響で宮中へ進出
賢子が宮中での第一歩を踏み出したのは、
母・紫式部の地位に大きく依存していました。
紫式部は宮廷文学の世界で高い評価を受け、
一条天皇の中宮・彰子に仕えていました。
その縁で、
賢子も宮中に出仕し、
母の後を引き継ぐ形で彰子に仕えることとなりました。
ここで賢子の宮中での活動がはじまります。
紫式部の文学的才能を受け継いだ藤原賢子
藤原賢子は『源氏物語』の作者として
名高い紫式部の娘であり、
その文学的才能を受け継ぎました。
母親の影響を強く受けた賢子は、
優れた歌人としても知られ、
多くの和歌を残しています
紫式部のように宮廷で文才を発揮することで、
賢子は早くから注目を集め、
その存在感を強めていきました。原賢子は紫式部の才能を受け継ぐ優れた歌人
藤原賢子の代表的な和歌 – 『百人一首』より
藤原賢子の最も有名な和歌の一つは、『百人一首』に収められている次の和歌です。
「有馬山 猪名の篠原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする」
「有馬山の猪名の篠原に風が吹くと、その風の音を聞いて、
あなたを忘れることなどできるでしょうか、いや、できません。」
この和歌は、風の音を聞くたびに恋人を思い出し、
忘れることができないという気持ちを表現しています。
賢子の繊細な感情がよく表れた一首です。
「有馬山」や「猪名の篠原」といった地名を巧みに使い
風が吹くことで過去の思い出が呼び覚まされる様子を描写しています。
これは、賢子が持つ感性の豊かさと、
情景描写に長けた技術が表れた一首と言えます。
藤原賢子の勅撰和歌集に収められた作品
賢子の和歌は、
『後拾遺和歌集』や『新古今和歌集』
といった多くの勅撰和歌集にも
収められています。
これらの和歌集に選ばれたことは、
当時の彼女の詠歌の質の高さが認められ、
宮廷内でも非常に評価されていた
ことを示しています。
賢子の和歌は、恋愛に限らず、
自然や人生の感情を繊細に捉え、
深い思索を込めた作品が多いのが特徴です。
藤原賢子の宮中での役割
賢子の宮廷での役割も
彼女の出世に大きく寄与しました。
母の後を継いで、
一条天皇の中宮である彰子に仕えた賢子は、
宮中での地位を確立しました。
さらに、
後朱雀天皇の第一皇子・
親仁親王(後の後冷泉天皇)の乳母に
任命されるという、
非常に重要な役割を果たしました。
このような高位の立場に就くことは、
賢子の社会的な地位をさらに強化しました。
この藤原賢子の宮中での活躍には、
やはり藤原道長がからんでいるのですね。
藤原賢子の結婚と家族の支援
賢子は藤原兼隆と結婚し、
後に高階成章と再婚しました。
これらの結婚は、
彼女の地位向上に貢献しました。
特に、再婚後も賢子はその立場を維持し続け、
宮廷内外での影響力を拡大しました。
このように、
家族の支援や結婚による関係性の強化も、
彼女の出世の一因となりました。
藤原賢子の出世には藤原道長の政治的支援が
藤原道長は、紫式部の娘である藤原賢子(大弐三位)に
対して大きな支援を行い、
その後の彼女の人生に重要な影響を与えました。
賢子は幼少期に父親を亡くし、
さらに母親である紫式部も早くに亡くなったため、
後見人がいないという厳しい状況に置かれていました。
道長の支援と賢子の宮中入り
藤原道長は、
紫式部を一条天皇の中宮である藤原彰子に
仕える女房として雇用していました。
この雇用関係が、賢子の宮中入りに繋がりました。
母・紫式部に続いて、賢子も彰子に仕えることとなり
これが彼女の宮廷でのキャリアの始まりでした。
藤原賢子の恋愛関係と結婚
賢子は、道長の息子である
藤原頼宗や藤原定頼と恋愛関係を持ち、
その後、道長の甥である藤原兼隆と結婚しました。
この結婚により、賢子は娘を産み、
貴族社会における自らの立場をさらに
強固なものにしました。
道長の一族との深い関係が
彼女の地位をさらに高める要因となりました。
藤原賢子の乳母としての役割と昇進
賢子は、後冷泉天皇の乳母として仕えることになり、
これが彼女の宮中での地位を確立する
大きな契機となりました。
乳母としての重要な役割を果たした後
彼女は従三位に昇進し
後冷泉天皇の側近としても活躍しました。
この昇進も、
道長の支援と彼女自身の才能が
相まって実現したものと言えます
才能と努力で輝いた藤原賢子の生涯
藤原賢子の生涯は、母・紫式部の影響を受けつつも、
彼女自身の努力と才能によって築かれたものでした。
彼女の文学的才能や宮廷での活躍は、
平安時代の文化と政治に大きな影響を与え、そ
の名は今も語り継がれています。
賢子の和歌や宮廷での役割は、
当時の社会における
女性の地位向上にも寄与したのかもしれませんね。
藤原賢子については以下のブログでも紹介しているので
よろしかったら覗いてみて下さい。
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