NHKの大河「光る君へ」にドはまり中。
中でも史実に行動が残っている藤原道長とても興味深い。
その中に御岳詣も。
全く知識のないモミジ
調べてみました。
藤原道長が行った御嶽詣(みたけもうで)とは 平安時代の貴族たちの信仰と修行
平安時代の「御嶽詣(みたけもうで)」は
奈良県吉野郡にある金峯山(きんぷせん)への参詣を指します。
この山は、特に平安貴族たちの間で信仰の対象となり、
霊験あらたかな山として崇められていました。
御嶽詣は、単なる参拝ではなく、
精進潔斎や修行を通じて自らを清め、
現世の厄災を祓い、
来世の極楽往生を願うための重要な行事でした。
金峯山(きんぷせん)について
歴史と信仰の中心地
奈良県吉野郡吉野町に位置する山岳信仰の聖地で、
特に金峯山寺(きんぷせんじ)が有名です
この寺院は、修験道の総本山であり
役行者(えんのぎょうじゃ)こと役小角(えんのおづぬ)
によって開かれたと伝えられています。
蔵王権現と金峯山寺の象徴
金峯山寺の本尊は蔵王権現(ざおうごんげん)で、
3体の巨大な立像が安置されています。
これらの像は高さ約7メートルもあり、
日本最大の秘仏として知られています。
現存する蔵王堂は、
1590年に豊臣秀吉の寄進によって再建されたもの。
世界遺産としての金峯山寺の価値
また、金峯山寺は世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として
登録されており、歴史的・文化的価値が非常に高い場所です。
御嶽詣では藤原道長にとって命がけ
藤原道長の御嶽詣の目的
藤原道長といえば、
娘の彰子の妊娠祈願のために御嶽詣(みたけもうで)を行った、
というのがよく語られる話です。
実際のところ、
その理由ははっきりとは分かっていません。
もしかしたら厄除のためだったかも。
当時、厄年になると御嶽詣をする風習がありました。
病に悩む道長の決断
不思議なのは、
道長自身はその時、厄年ではありませんでした。
むしろ、少し体調を崩していたことがわかっています。
当時の記録『御堂関白記』には、「頭風」「咳病」「眼病」「腰熱」
といった症状が記されており、
彼は決して本調子ではなかったんです。
参詣の準備と旅路
道長は参詣の前に約70日間の精進潔斎を行い、
身を清める修行をしました。
その後、
約20名の供の者とともに京を出発し、
奈良県吉野郡の金峯山(きんぷせん)へ向かいました。
雨の中での参詣と道長の信念
実際に歩き始めた道長を待っていたのは、
降り続く雨。
道中ずっと雨が降っていた、
という記録も残っています
(片山剛「藤原道長の宗教心」2015年)。
大変な道のりだったようです。
道中は雨が降り続ける厳しい状況でしたが、
道長は無事に金峯山に到着しました。
金峯山での祈願と経典奉納
金峯山では、
道長は自ら書写した経典を納め、
蔵王権現に祈願を行いました。
この経典は後に発見され、
道長の参詣の証拠として知られています。
御嶽詣の意義
仏教的修行としての御嶽詣
御嶽詣は、
貴族たちにとって仏教的な修行の一環としての意味合いも強くありました。
彼らは、現世の罪や災いを清め、
来世における極楽浄土への到達を願って山へと向かいました。
この精進潔斎を伴う参詣は、
体力的な試練でもあり、
精神的な浄化の場でもありました。
金峯山と山岳信仰の発展
こうして、金峯山は山岳信仰の中心地として、
その地位を確立していきます。
平安時代を通じて多くの貴族たちがこの山を訪れ、
信仰を深めていきました。
参詣そのものが
個人の運命や家族の未来を左右する重要な行為とされたのです。
平安時代の金峯山の影響力
金峯山は、その神聖さと信仰の厚さから、
山岳修行者たちや貴族たちにとって
欠かせない場所となりました。
険しい山道や過酷な修行を通じて、
貴族たちは自らの魂を清め、
仏教の教えに従った生活を実践しようとしました。
金峯山は山岳信仰の重要な拠点として、
その名を歴史に名を刻んでいます。
藤原道長の御嶽詣への思いが通じるー藤原彰子の懐妊
時の権力者として
強い信念がうかがえますが、
「光る君へ」への藤原道長にドはまり中のモミジは
娘の幸せを望む思いが御岳詣へと駆り立てたのではないかと
思いたいのですが。
現代の金峯山寺への一般の参拝ー道長が見た景色を自分自身で
金峯山寺は一般参拝が可能で、御嶽詣も行えますが、
修験道の正式な修行や特別祈願を希望する際は
事前に問い合わせが必要です。
また、秘仏ご本尊の特別御開帳などの行事に参加すると、
深い信仰体験が得られます。
行事や最新情報は公式サイトで要確認。
金峯山寺の公式ホームページは以下のリンクからアクセスできます:
ここでは、寺の歴史、修験道、世界遺産としての情報、行事案内などを確認できます。