やなせたかしの妻・小松暢の高知新聞での活躍“戦後初の女性記者”

NHK朝ドラ『あんぱん』で注目を集めているのが、主人公・やなせたかしさんを支える妻の存在です。そのモデルとなったのが、小松暢(こまつ・のぶ)さん。戦後間もない1946年、彼女は高知新聞に“戦後初の女性記者”として入社し、男性ばかりの社会で果敢に取材を重ねました。

「怖いもの知らず」「はちきん」と呼ばれるほどの行動力、そして一貫して「正義」を貫く姿勢。ドラマで描かれる聡明で凛とした女性像は、まさに暢さんそのものでした。

このブログでは、やなせたかしさんの妻として知られる小松暢さんの仕事や入社の動機、記者としての姿勢などを通じて、彼女がどのように人生を切り拓いたのかを振り返ります。現代にも通じる「働く女性の先駆け」としての魅力に迫ります。

  1. 2. 幼少期〜成人までの背景|大阪の街で育ち、戦時下に愛を誓った日々
    1. やなせたかしの妻・小松暢の原点|大阪のモダンな街で育った“凛とした少女時代”
    2. 旧制阿倍野高等女学校で育まれた先進性|小松暢が培った知性と自立の精神
    3. 卒業後、暢さんはほどなくして日本郵船に勤務していた小松総一郎さんと出会い、
    4. たった1年で終わった結婚生活|夫の戦死と向き合い記者の道へ進んだ小松暢
  2. 4. 記者としての仕事内容と姿勢|ジープで駆け回った“ハチキン記者”の矜持
    1. 戦後間もない高知で奮闘した女性記者・小松暢|政治・行政の最前線に立った速記記者の挑戦
    2. 戦後の高知を駆け抜けた“ジープ記者”小松暢|ライカで切り取る現場の真実
    3. 怖いもの知らず”のハチキン記者・小松暢|県政取材で示した胆力とプロ意識
    4. 記者としての信条:「人に伝えることは、責任を持つこと」
  3. 5. やなせたかしさんとの出会いと仕事上の関係
    1. 編集部で出会った“反対の性格”のふたりが支え合う関係に
    2. 仕事への敬意が育んだ絆|やなせたかしと小松暢、編集部で始まった信頼と共鳴
  4. 6. 「月刊高知」での編集活動|文化誌創刊を支えた陰の力と別れのことば
    1. 「先に上京して待っているわ」|やなせたかしを支えた小松暢の覚悟と退社の決断
  5. 7. 転職・人生観と仕事への向き合い方
    1. 前を見て歩く「人生を振り返らない」人
    2. 「男勝り」ではなく「真っすぐな人」
  6. 8. 支え合うパートナーとして|やなせたかしを陰で支えた小松暢の献身
    1. 精神的な支えと経済的な安心感を同時に与えた存在
    2. 家庭のことはすべて任せて、創作に集中させる懐の深さ
    3. 編集や原稿チェックでも的確な助言を
  7. 9. 生涯を通じて貫いた仕事観と信念
    1. 苦しむ人の側に立つ「記者の原点」
    2. 病を抱えても、明るさとユーモアを忘れない強さ
    3. 信念を貫いた静かな人
  8. まとめ|小松暢さんが教えてくれる“静かなる強さ”
    1. ▷ 自らの信念に従い、道を切り拓いた女性
    2. ▷ 現代にこそ響く、暢さんの仕事観と生き方
    3. やなせたかし(アンパンマン作者)公式ポータル
    4. 参考にした書物・資料・情報源一覧
      1. 1. 『やなせたかし 明日をひらく言葉』藤本由香里(編)/小学館文庫
      2. 2. 『ボクのこと、忘れてください。やなせたかし自伝』/小学館文庫
      3. 3. 『アンパンマンの遺書』やなせたかし(岩波書店)

2. 幼少期〜成人までの背景|大阪の街で育ち、戦時下に愛を誓った日々

やなせたかしの妻・小松暢の原点|大阪のモダンな街で育った“凛とした少女時代”

やなせたかしさんの妻・小松暢(こまつ・のぶ)さんは、大阪市で生まれ育ちました。

家は商社に勤める父を中心とした都会的な家庭で、言葉遣いも所作もきちんとした、

凛とした女の子だったと伝えられています。

父は高知県出身で、暢さんの中には土佐の気風と大阪のモダンな気質が

自然と根づいていきました。

幼少期を過ごした昭和初期の大阪は、活気ある商都として日本の近代化を

けん引していた時代。御堂筋には市電が走り、心斎橋や船場の通りには

呉服屋や雑貨商が立ち並び、女性たちは和服と洋装を着分けながら足早に通勤していました。

そんな街の空気に触れながら、暢さんは都市で生きる女性としての自立心を、

自然に育んでいったのです。

旧制阿倍野高等女学校で育まれた先進性|小松暢が培った知性と自立の精神

彼女が学んだのは、当時の名門校のひとつである旧制阿倍野高等女学校。

礼儀や裁縫、料理といった家政科目はもちろん、漢文や英語など知的な教養科目にも

力を入れる学校でした。「よい妻・よい母」になるための教育が主流だった時代においても、

阿倍野高女は、女性が社会に出て働く可能性を視野に入れた、

先進的な校風を持っていたといいます。

卒業後、暢さんはほどなくして日本郵船に勤務していた小松総一郎さんと出会い、

21歳で結婚します。総一郎さんは大柄で誠実な人柄。

おだやかで物静かな暢さんとは対照的な印象だったそうです。

ふたりは大阪市内に新居を構え、戦時下ながらもつつましく、

穏やかな新婚生活を始めました。

しかし、時代の波は容赦なくその日常を奪っていきます。

総一郎さんは徴兵され、遠くフィリピンの戦地へと向かいました。

暢さんは夫の帰りを信じながら、手紙を送り、暮らしを守り続けていました。

そして1945年8月7日、終戦を目前に控えたその日、総一郎さんが戦死したという知らせが

届きます。まさに終戦の8日前。わずか1年余りの結婚生活は、

あまりに突然の別れで幕を閉じることになったのです。

けれども、暢さんは悲しみに沈みきることなく、

誰かの役に立ちたい」「自分の人生を生き抜きたい」と強く思いました。

その想いが、やがて彼女を記者というまったく新しい世界へと導いていくことになるのです

卒業後、暢さんはほどなくして日本郵船に勤務していた小松総一郎さんと出会い、

21歳で結婚します。総一郎さんは大柄で誠実な人柄。

おだやかで物静かな暢さんとは対照的な印象だったそうです。

ふたりは大阪市内に新居を構え、戦時下ながらもつつましく、

穏やかな新婚生活を始めました。

たった1年で終わった結婚生活|夫の戦死と向き合い記者の道へ進んだ小松暢

しかし、時代の波は容赦なくその日常を奪っていきます。

総一郎さんは徴兵され、遠くフィリピンの戦地へと向かいました。

暢さんは夫の帰りを信じながら、手紙を送り、暮らしを守り続けていました。

そして1945年8月7日、終戦を目前に控えたその日、総一郎さんが戦死したという知らせが

届きます。まさに終戦の8日前。わずか1年余りの結婚生活は、

あまりに突然の別れで幕を閉じることになったのです。

けれども、暢さんは悲しみに沈みきることなく、

誰かの役に立ちたい」「自分の人生を生き抜きたい」と強く思いました。

その想いが、やがて彼女を記者というまったく新しい世界へと導いていくことになるのです。


4. 記者としての仕事内容と姿勢|ジープで駆け回った“ハチキン記者”の矜持

戦後間もない高知で奮闘した女性記者・小松暢|政治・行政の最前線に立った速記記者の挑戦

小松暢さんが高知新聞に入社したのは、1946年(昭和21年)

戦後すぐの混乱期、高知の街にはまだ焼け跡が残り、物資も人手も不足している時代でした。

そんな中で暢さんは、県政・市政を担当する速記記者として配属され、

取材現場の第一線に立ちます。

当時の新聞社には、女性記者自体が非常に珍しく

ましてや政治や行政分野を取材する記者はほとんどが男性

そんな中で彼女は、まったく物おじすることなく、県庁や市役所の会見

議会の傍聴に足を運び、必要とあれば現地にも自ら乗り込んでいきました。

戦後の高知を駆け抜けた“ジープ記者”小松暢|ライカで切り取る現場の真実

特徴的なのは、移動手段として

自らジープを運転していたという点です。

舗装もされていない戦後の道を、焼け跡を横目に土煙を上げながら走る暢さんの姿は、

当時の人々にとっては驚きだったといいます。「女性がジープで走り回るなんて

記者というより軍人みたいだ」と言われることもあったほどです。

さらに、彼女は当時としては非常に珍しいドイツ製のライカの一眼レフカメラを携帯し、

自ら写真も撮っていました。ピント合わせや露出設定に手間がかかる高級機を、

自然に使いこなしていたことからも、記者としての意識の高さと、

記録に対する責任感がうかがえます。

怖いもの知らず”のハチキン記者・小松暢|県政取材で示した胆力とプロ意識

彼女の行動力は、社内外でたびたび話題になりました。

とくに高知では、彼女のような胆力のある女性を**「ハチキン(肝の据わった女)」**と

呼びます。暢さんはまさにその代表格で、周囲からは「怖いもの知らず」

突っ走るハチキン」と称されていたのです。

実際、取材先では男性職員たちの間で「小松さんは要注意」とささやかれるほど。

会見でうやむやな説明があると、はっきり「それでは県民は納得しませんよ」と切り返し、

厳しい視線で鋭く切り込む──そんな姿勢が、行政側にも緊張感をもたらしていました。

そして、彼女の取材メモには、字の乱れがほとんどなかったといいます。

速記を身につけ、発言の一字一句を正確に記録するその姿勢は、

単なる女性記者という枠を超え、プロフェッショナルとしての誇り

体現していたのでしょう。


記者としての信条:「人に伝えることは、責任を持つこと」

暢さんが記者として特に大切にしていたのは、「事実を自分の目で確かめること

読者に責任を持つこと」。

誰かの発言や噂に流されず、自ら現場へ足を運び、目で見て、耳で聞いたものだけを書く。

その徹底ぶりは、同僚記者たちにも大きな影響を与えました。

5. やなせたかしさんとの出会いと仕事上の関係

編集部で出会った“反対の性格”のふたりが支え合う関係に

1946年、小松暢さんは高知新聞に入社し、県政・市政を担当する速記記者として

活躍していました。

一方、同じ年に復員したばかりのやなせたかしさん(当時・柳瀬嵩)も、

編集部で嘱託デザイナーとして働いていました。ふたりが出会ったのは、

まさにこの高知新聞社内の編集部でのことでした。

やなせさんはのちに、暢さんについて「ぼくと正反対の性格だった」と振り返っています。


自身は内向的で感情の起伏が激しく、どちらかといえば不安定な気質であるのに対し、

暢さんは常に落ち着いていて、冷静で現実的。

記者としては現場主義で行動的な一面もあり、

周囲からは「アグレッシブ」「怖いもの知らず」と称されていたほどです。

しかも、暢さんは単に大胆なだけではありません。地道な努力をいとわず、

どんな取材でも手を抜かない、実直で芯の強い努力家でもありました。

議会取材では速記を完璧にこなし、発言の一言一句を逃さず記録する。

その裏には、毎日繰り返される練習と、正確さへの徹底したこだわりがありました。

仕事への敬意が育んだ絆|やなせたかしと小松暢、編集部で始まった信頼と共鳴

編集部内では、記事の構成や見出しなどを一緒に考える機会も多く、

やなせさんは次第に彼女の記者としての能力、判断力、

そして何よりもその人間性に強く惹かれていきました。


やなせさん自身がまだ自身の道を模索していた時期、暢さんの確固たる姿勢と行動力は、

大きな刺激であり、心の支えでもあったのです。

ふたりはやがて親しくなり、公私にわたって協力し合う関係へと発展していきます。

まだ結婚に至る前から、互いの“仕事ぶり”へのリスペクトが、

しっかりと築かれていたのです。

6. 「月刊高知」での編集活動|文化誌創刊を支えた陰の力と別れのことば

記者として県政や市政の現場を走り続けた小松暢さんは、

やがて編集の現場へと活躍の場を広げていきます。

1947年、高知新聞社が**地方紙としては異例の文化総合誌『月刊高知』**を創刊する

にあたり、その編集スタッフに抜擢されたのです。

『月刊高知』は、地方から文化を発信しようという意欲的な試みで、

文学、美術、演劇、評論など、さまざまな分野の記事が掲載されていました。

戦後の混乱から少しずつ落ち着きを取り戻しつつあった高知の人々にとって、

心の潤いや知的刺激をもたらす雑誌として注目を集めます。

暢さんは、第1号から第5号まで編集に深く関わり、記事の企画、取材、校正、

進行管理まで多岐にわたる仕事をこなしました。当時の編集部は少人数で、

毎月の締切と格闘する日々。しかも女性編集者という前例がほとんどない中で、

彼女の的確で冷静な判断力はチームを大いに支えました。

なかでも特徴的だったのは、「読み手の視点を忘れない」編集姿勢です。

難解な言葉は避け、地元の人々に寄り添う表現を選び抜くその目線は、

記者時代の経験が活きていたからこそ。文化を届けるという目的に、

現場主義の視点が自然と融合していたのです。

「先に上京して待っているわ」|やなせたかしを支えた小松暢の覚悟と退社の決断

しかし、第5号の編集を終えたところで、暢さんは高知新聞社を退社します。

理由は、やなせたかしさんが東京での活動を本格化させるために上京する決意を

したからでした。

このとき、暢さんがやなせさんにかけた言葉が、のちに語り草となります。

先に上京して待っているわ。

この一言には、暢さんの冷静で前向きな気質と、やなせさんへの深い信頼、

そして“対等なパートナーとして支える”という強い意志が込められていました。

その後ふたりは結婚し、東京での新たな暮らしをスタートさせますが、

この『月刊高知』の編集活動は、暢さんの記者・編集者としてのひとつの集大成であり、

文化発信という使命に情熱を注いだ重要な時期だったといえるでしょう。

7. 転職・人生観と仕事への向き合い方

「振り返らない」女性記者が選んだ次の舞台──国会議員秘書としての再スタート

戦後、高知新聞で記者や編集者としての役目を果たした小松暢さんは、

その後、東京で国会議員秘書へと転身します。表舞台には出ないものの、

政策立案や議会運営の裏側を支える役割に、

彼女は記者時代に培った速記技術政治への洞察力を存分に活かしました。

当時、女性が国政の現場で働くことは極めて珍しいことでした。

しかし暢さんは、あくまで自然体でその任にあたり、どんな職務にも正確さと誠実さを

貫きました。ときには政治家や関係者に遠慮なく意見を述べることもあり、

その姿勢は周囲の信頼を集めていきます。


前を見て歩く「人生を振り返らない」人

暢さんの人生観は、一言でいえば「常に前向き」。

どんな困難にも動じず、泣き言を言わず、淡々と“自分にできること”をこなしていく。

やなせたかしさんは後年、そんな彼女をこう表現しています。

彼女は一度も過去を振り返ったことがない。
いつも未来を向いていた。まっすぐに。

夫・小松総一郎さんを戦争で失い、記者としても第一線を走り抜け、

さらに未知の政治の世界へ──。

そんな波瀾万丈の歩みのなかで、暢さんが愚痴をこぼすことはほとんどなく、

むしろどんな状況でもユーモアを忘れない余裕すら持っていたといいます。


「男勝り」ではなく「真っすぐな人」

暢さんを知る人たちは、彼女を「男勝り」という言葉で語ることもありますが、

それは単なる気の強さではありません。

理不尽を許さない正義感自分の軸を持ち、揺るがない信念を持つ姿が、

当時の社会では“男性的”に映っただけだったのかもしれません。

やなせたかしさん自身も、創作に悩んだ時や気持ちが沈んだとき、

暢さんの芯の強さと冷静な助言に何度も救われたと語っています。

「彼女は、叱るときは叱る。でも、ちゃんと笑って見送ってくれる」と。

その姿は、単なる「妻」や「女性」を超えた、対等な人生の伴走者そのものでした。

8. 支え合うパートナーとして|やなせたかしを陰で支えた小松暢の献身

東京で新生活を始めたやなせたかしさんと小松暢さん。ふたりの関係は、

いわゆる「夫婦」という枠を超えて、

真の意味でのパートナーシップとして成熟していきます。

とくに暢さんの果たした役割は、家庭を支えるだけでなく、

やなせさんの創作活動そのものを支えるものでした。


精神的な支えと経済的な安心感を同時に与えた存在

やなせさんがまだ漫画家として芽が出る前、収入が不安定な時期が長く続いていました。

自分の才能に疑問を抱き、仕事のない日々に気持ちが沈んだときもあったといいます。

そんな中で、暢さんは一切動じず、静かに、しかし力強くこう言ったのです。

あなたに収入がなければ、私が働いて食べさせます。」

この言葉に、やなせさんは深く救われたと後に語っています。

ただの慰めではなく、本気でそう言えるほど、暢さんには生活力と信念がありました。

夫の夢を否定せず、焦らせず、追い詰めず、「今のあなたのままでいい」と認める

そんな絶対的な安心感が、やなせさんの創作を支える土台となっていったのです。


家庭のことはすべて任せて、創作に集中させる懐の深さ

日々の家事や生活の段取りも、暢さんが一手に引き受けていました。

料理、掃除、家計管理──生活の土台を安定させることで、

やなせさんが心おきなく創作に打ち込める環境を整えていたのです。

しかもそれを、決して「支えてやっている」とは言わず、

自然体でこなしていたところが、暢さんらしいところでもあります。


編集や原稿チェックでも的確な助言を

暢さんはかつて新聞記者・編集者として活躍していた経歴をもち、

文章に対して厳しくも的確な目を持っていました。

やなせさんの原稿をチェックし、内容に対して率直な意見を述べることも多々あったといいます。

夫婦でありながらも「仕事仲間」としての信頼関係が築かれていたことがうかがえます。


やなせさんが「あの人がいなければ、今の自分はなかった」と明言するように、

暢さんは“陰の支え”どころか、

やなせたかしの人生そのものに深く根ざした存在だったのです。

その支えは、感情や愛情にとどまらず、生活・仕事・心の土台を一手に引き受けた、

まさに「人生の伴走者」と呼ぶにふさわしいものでした。

9. 生涯を通じて貫いた仕事観と信念

「正義とは何か」を問い続けた人生──パンを届けるために書くという使命感

小松暢さんの記者人生、そしてその後の生き方の根底には、

常に**「正義とは何か」**という問いがありました。

ただ華やかなニュースを伝えるのではなく、誰かの不条理に光を当て

弱い立場の声をすくい取る。それが彼女の信念でした。

とくに印象的なのは、暢さんが好んで語っていたという言葉──

飢える人にパンを与えるのが正義

この言葉は、彼女にとっての「書くこと」「働くこと」の意味を象徴しています。

単に情報を届けるのではなく、読む人の心と生活に届くような言葉を届ける

それが暢さんにとっての「仕事」でした。


苦しむ人の側に立つ「記者の原点」

戦後の焼け跡を走り回り、時に泥まみれになりながらも現場に通い続けたのは

誰かが見過ごしていることを、自分が書かなくては」という思いからでした。

行政や政治の矛盾を、誠実に、かつ冷静に伝える姿は、

同業者たちからも一目置かれるものでした。

議会の速記を取りながらも、そこに込められた言葉の裏側を読み取り、

市民の暮らしとどうつながるかを常に考えていた。

そんな「一歩先を見る目」と「揺るがぬ倫理観」は、

彼女のキャリアを通して一貫していたものです。


病を抱えても、明るさとユーモアを忘れない強さ

晩年、暢さんは病を抱えながらも、決して塞ぎ込むことなく、

やなせたかしさんはその様子を、「あの人は最後まで愚痴を言わなかった」と語っています。

前向きに日々を過ごしていたといいます。

薬の副作用で体がきついときでも、「今日は少しラクかも」と笑い、

訪ねてきた人には逆に気遣いの言葉をかける。

その姿に、周囲の人々は勇気づけられ、励まされました。

また、亡くなる直前まで世の中の動きに関心を持ち続け、新聞や雑誌に目を通し、

記者時代と変わらぬ“知的好奇心”と“人を想う気持ち”を持ち続けていたといいます。


信念を貫いた静かな人

暢さんは、大声で主張するタイプではありませんでした。

しかし、**「何が正しいか」「誰のために働くか」**という問いを、静かに、

そして頑なに持ち続けた人でした。

人を非難せず、自分を誇示せず、それでも筋を通す

そんな姿勢が、周囲に信頼と尊敬を与え続けたのです。

まとめ|小松暢さんが教えてくれる“静かなる強さ”

小松暢(こまつ・のぶ)さんの人生は、まさに「時代を切り拓いた女性」の歩みでした。


戦後の混乱期、社会がまだ男性中心だった時代に、

彼女は記者として、編集者として、さらには国会議員の秘書として

さまざまな現場で責任を担い、第一線で活躍しました。

一方で、夫・やなせたかしさんの創作活動を精神的にも経済的にも支え、

家庭では安心と安定を守り抜きました。


「家庭」か「仕事」かではなく、両方を選び、どちらにも誠実に向き合ったその姿勢は、

今を生きる私たちに多くの示唆を与えてくれます。


▷ 自らの信念に従い、道を切り拓いた女性

彼女が一貫して大切にしていたのは、「誰かの役に立ちたい」

「不正を見過ごさない」という信念でした。


“怖いもの知らずの女性記者”と称されながらも、根底にあったのは、

人の痛みに寄り添う優しさと、揺るがぬ倫理観

立ち止まらず、過去を引きずらず、つねに前を向いて歩く──

そんな暢さんの姿勢は、まさに「芯のある生き方」そのものでした。


▷ 現代にこそ響く、暢さんの仕事観と生き方

女性が社会で活躍することが当たり前になった現代においても、


「どう働くか」「誰のために働くか」「どんな姿勢で生きるか」は、

常に問い直されるテーマです。


小松暢さんの歩みは、その問いに対して、時代を超えて静かに、

しかし力強く応える実例かもしれません。


やなせたかしさんという偉大な創作家の陰で、光を放ち続けた小松暢さん。


その生き様は、「誰かを支える力」「自分の道を貫く勇気

日常を守るしなやかさ」の大切さを、今に伝えていると言えるかもしれませんね。

やなせたかし(アンパンマン作者)公式ポータル

参考にした書物・資料・情報源一覧

1. 『やなせたかし 明日をひらく言葉』藤本由香里(編)/小学館文庫

  • やなせたかし氏による暢さんへの言及、夫婦のエピソード、創作を支えた存在としての描写などが豊富です。
  • 特に「収入がなければ私が働いて食べさせる」の逸話もこの本に登場します。

2. 『ボクのこと、忘れてください。やなせたかし自伝』/小学館文庫

  • 自伝的作品の中で、暢さんとの出会いから結婚、東京での生活、亡くなる直前の様子までが語られています。

3. 『アンパンマンの遺書』やなせたかし(岩波書店)

  • 自らの人生哲学とともに、暢さんの支えがどれほど精神的なものだったかが綴られています。
  • 正義感や「飢える人にパンを与える」という言葉の背景も語られています。




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