やなせたかしさんといえば、「アンパンマン」の生みの親として知られる、日本を代表する絵本作家・漫画家です。その優しさあふれる作風の裏側には、幼くして経験した父の死という、深い哀しみと孤独がありました。やなせさんの心の奥には、常に「父」という存在が大きく息づいていたのです。
やなせたかしさんの実父・柳瀬清さんの経歴
柳瀬清さんの出身地と家柄
- 高知県香美郡在所村(現・香美市香北町)出身。
- 旧家・柳瀬家の次男として生まれる。
- 家は裕福で文化的な素地があり、教育にも熱心だったと言われます。
アジアと世界を見据えた教育──柳瀬清が学んだ実業学校とは
世界を見据えた学びの場──柳瀬清が通った実業学校
柳瀬清さんは、やなせたかしさんの父として知られるだけでなく、優れた教養と国際感覚を備えた人物でした。その素地を築いたのが、彼が若き日に学んだ日本の実業学校です。
この学校は、単なる職業訓練の場ではありませんでした。
※この学校は、日本が当時進めていた中国進出の一環として設立された背景を持ち、
アジア全体、さらには世界を見据えた教育方針が掲げられていたのです。
語学・歴史・ビジネス感覚──広がる柳瀬清の国際的視野
清さんはその学校で、語学・地理・歴史に加え、
国際ビジネスに関する知識や感覚を身につけていきました
。たとえば、中国語や英語などの実践的な語学力を磨き、
世界地図を広げながら貿易や交通の要衝を学び、国際情勢を読む力を育てたといわれています。
こうしたグローバルな視野をもった教育は、のちに軍人としての任務だけでなく、
文学的・人間的な広がりにもつながっていきました。
彼が詠んだ短歌や散文には、単なる軍人とは異なる繊細な視点と、
国を超えた人間理解の片鱗が見られます。
その背景には、若き日に受けた「世界を見据える」教育の影響があったのかもしれません。

職歴:幅広い職業経験
- 日本郵船に勤務
- 船会社での仕事を通じて、
海外貿易や物流にも明るかったとされます。
- 船会社での仕事を通じて、
- 講談社にて編集者として勤務
- 出版の世界にも関わり、
文学・文章のセンスを発揮。
- 出版の世界にも関わり、
- 朝日新聞社に入社
- 最終的には「東京朝日新聞」の記者となり、
1923年に特派員として再び上海に赴任。 - 記者としての仕事をしながら、
詩や短歌、小説も書いていたことが
やなせさんの証言にあります。
- 最終的には「東京朝日新聞」の記者となり、
柳瀬清さんの 家庭と死
① 異国で再会した父――やなせたかし、幼き日の家族の記憶
やなせたかしさんがまだ1歳の頃、実父・柳瀬清さんは単身で中国・上海へと赴任しました。
朝日新聞の特派員としての仕事に就いたためで、
当時としては珍しい国際的な報道の最前線に立つ記者でした。
しばらくは清さんだけが中国で暮らしていましたが、
その後、家族も彼を追って一時的に上海で合流。
やなせさんは幼いながらも、
異国の地で父と過ごす短い家族の時間を経験します。
しかしその穏やかな日々は長くは続きませんでした。
清さんは上海から**福建省アモイ(廈門)**へと転勤となり、
再び家族と離れて単身赴任の生活に戻ります。
② 幻のような父――やなせたかし、4歳で見送った別れ
やなせたかしさんは、まだ言葉も十分に覚えない年頃。
父との再会はかなわず、次に届いた知らせは、1924年、アモイで病死というものでした。
わずか33歳という若さで、清さんはこの世を去ったのです。
このとき、やなせさんはわずか4歳。
父との記憶はほとんど残っておらず、のちに自伝やインタビューの中で、
父のことを「幻のような存在だった」と語っています。
家族から聞かされる話や、残された手紙、
写真を通じてしかその人となりを知ることができなかった父――。
しかし、その存在は確かにやなせさんの心に深く刻まれていました。
父・清さんは教養豊かで情熱的な人物だったと言われ、
やなせさんが後に漫画家・詩人・絵本作家として歩む上での
**「静かな原動力」**となったのかもしれません。
やなせたかしさんの実父・柳瀬清さんの人物像と影響
幻の父が遺した詩情――短歌に込められた清さんの声
手紙に繰り返される優しさと正義感――“空腹の哲学”の源流
清さんは赴任先の中国から届く手紙でも、知性と温かさを表していました。
やなせさんが幼い頃に受け取った絵入り書簡には、こんな一節があります。
「どんな職業に就くにしても、詩を書くことと文章を書くこと、絵を描くことは続けるべし」
この言葉は、幼い嵩さんにとって「創作は人生の柱である」という信念の種となりました。
「父の教えがアンパンマンの哲学に」――愛と正義の深いつながり
幻の父が遺した詩情――短歌に込められた清さんの声
やなせたかしさんが晩年まで愛読したという清さんの短歌には
、文学的才能と人柄が凝縮されています。
タイトル:「草深き野に風たなびき我が思いを君に寄す」。
その一首からは、異郷での寂しさと、遠く離れた家族への想いがにじみ出ています。
やなせさんはこれらを読むたびに、
「父の文才は僕よりもずっと優れていた」
と語っており、「文学の師」であった父を心底尊敬していたことがうかがえます。
という形で表現したと伝えられています
父の教え—優しさと誠実さを胸に
やなせたかしさんが幼少期に父親から受けた印象深いエピソードがあります。
柳瀬清さんは、厳格な人物でありながらも深い優しさを持っていたといいます。
やなせさんが子どもの頃、何か悪いことをして叱られた時、父親は「お前が悪いんじゃない。
お前が悪いことをするのは、親として教えきれていないからだ」と優しく語りかけたそうです。
また、やなせたかしさんが幼い頃、家族で貧しくて物がなくても、
父親は「お金ではなく、心で豊かであれ」という教えを大切にしていました
柳瀬清さんは、子どもたちに「自分の良心に従って生きること」が最も
大切だということを伝えたかったのだといいます。
戦争の記憶と平和への願い—父の教えが生んだ創作の原点
柳瀬清さんは、やなせたかしさんが生まれた時期に、戦争に関わっていたこともあり、
戦争の影響を強く受けた世代です。戦争の経験から、家族や身近な人々への深い愛情を
持つようになり、また、その過酷な時代にどう生き抜くかということを
強く意識していたと言われています。
やなせたかしさんは、父親から「戦争というものが、どれほど多くの命を奪い、
何もかも壊していったか」を語られたことが、平和への願いとして自身の作品にも
大きく反映されたと語っています。柳瀬清の記憶とやなせたかしさん
創作の原点にある「愛と正義のかたち」
やなせたかしさんの代表作『アンパンマン』は、空腹の人に自分の顔をちぎって分け与えるという、
究極の「自己犠牲のヒーロー」。
このキャラクターの誕生には、「正義とは何か」「本当に人を助けるとはどういうことか」
というやなせさんの人生を通じた問いが込められています。
これは、父のように立派な人物を突然失ったこと、
そしてその後の苦労に満ちた生活の中で感じた
「理不尽さ」「不条理」への答えでもあったのでしょう。
父への憧れと精神的な継承
柳瀬清は詩や短歌、物語を書くことを愛する、教養深い知識人でした。
やなせさんは、残された父の文章を読み返すたび、「自分が書くよりも立派だった」と語っています。
自分が何者であるか悩み続けた青年時代、やなせさんは「父が生きていたら、どう思うだろう」
と考えることで自分を支えていたとも言われています。
つまり、実父は物理的には早くに亡くなったものの、精神的にはずっと生き続けていたのです。
父親の「やさしさ」への憧れ
たかしさんは成長するにつれ、
「父に抱かれた記憶はないけど、
父はきっと優しかったに違いない」
と語っています。
だからこそ、彼が描くヒーロー(アンパンマン)も「力」ではなく「優しさ」を重視しているのだと言われています。
やなせたかしさんの中で生き続ける柳瀬清さん
「父のことはほとんど覚えていません。でも、亡くなってからもずっと、私の中に父は生きていました。どんな判断をするときも、“父ならどうしただろう”と考えるようになったのです。」
孤独と悲しみが生んだ「優しさの物語」
やなせさんの作品には、常に「やさしさ」と「助け合い」がテーマとして流れています。
それは、幼少期に感じた寂しさ、愛された記憶、
そして助けてくれる人が必要だった自身の経験に根ざしたものでした。
アンパンマンはただの子ども向けキャラクターではなく
やなせさんの「人生哲学」の象徴。
そしてその原点には、やさしく聡明だった父・柳瀬清の影が、確かに刻まれているのです。
おわりに
やなせたかしさんにとって、父・柳瀬清の存在は「失ったけれど消えない灯火」のようなものでした。
その灯は、やがて多くの子どもたちを照らす「アンパンマン」という光となって世に放たれました。
だからこそ、あの優しい顔には、深い悲しみと大きな愛がこめられているのかもしれません。