朝ドラ「あんぱん」に期待がたかまっています。やなせたかしさんといえば、『アンパンマン』の生みの親として広く知られています。その彼の人生には常に支えてくれた最愛の妻、小松暢(こまつ のぶ)さん。二人は単なる夫婦という関係を超えて、互いに創作の世界で影響を与え合うパートナーでもありました。
やなせたかしさんの幼少期
やなせたかし氏(本名:柳瀬嵩)は、1919年(大正8年)に東京で生まれました
(高知県生まれとする説もあります)。
父の清は旧家の出身で、上海の東亜同文書院を卒業後、講談社や東京朝日新聞で
編集者として働きました。一方、母の登喜子は高知県立第一高等女学校出身の才女でした。
1923年(大正12年)、清は新聞社の特派員として上海に単身赴任し、
嵩は母とともに高知へ移住しました。しかし、翌年に父が赴任先で亡くなり、
弟の千尋は伯父の養子となり、嵩は母と祖母と暮らすことになりました。
母は華やかで奔放な性格で、習い事に熱心だったそうです。
その後、母の再婚が決まり、嵩も弟と同じように伯父のもとへ引き取られました。
幼くして父の死や家族との別れを経験し、波乱の幼少期を過ごしました。
やなせたかし氏の青年期(奥さんと出会うまで)
やなせたかしさんの青年期は、戦争と貧困の中で苦労を重ねながらも、
創作への情熱を育んだ時期でした。
学業と学生時代
やなせさんは高知県の小学校を卒業後、高知県立高知城東中学校(現在の高知追手前高校)に
進学しました。学生時代は文学や美術に興味を持ち、
絵を描いたり詩を書いたりしていました。卒業後、
東京の**多摩帝国美術学校(現在の多摩美術大学)**へ進学します。
戦争と従軍生活
しかし、学業半ばで第二次世界大戦が勃発。
やなせさんは徴兵されて中国戦線へ従軍することになります。
戦場での体験は彼の価値観に大きな影響を与え、
「正義とは何か」という問いを生涯持ち続けることになりました。
この経験は後の『アンパンマン』のテーマにもつながっています。
戦後の苦労と漫画家への道
戦後、復員したやなせさんは、すぐには漫画家として成功せず、
さまざまな仕事をしながら生計を立てました。
高知新聞社の記者や、東京の出版社での編集の仕事を経て、
次第に漫画やイラストの仕事を増やしていきます。また、詩や童話も手がけるようになりました。
このような苦難の時代を経て、やなせさんは徐々に漫画家・作家としての道を歩み始め
やがて後に妻となる詩人の小松暢(こまつ のぶ)と出会うことになります。
やなせたかしさんと妻・小松暢(こまつ のぶ)の出会い
妻との支え合いと不屈の信念
そんな苦しい時期を支え続けたのが、妻の小松暢(こまつ のぶ)さんでした。
二人は戦後の混乱期に出会い、やがて結婚。
小松暢(こまつ のぶ)さんはやなせさんの最大の理解者として、
成功までの長い道のりを共に歩みました。
小松暢(こまつ のぶ)さんの編集者・詩人としての顔
時代を駆けたハチキン記者 ― 小松暢の軌跡
小松暢(こまつ のぶ)さんは、1918年に大阪で生まれました。
父親は高知県安芸市の出身で、商社「鈴木商店」に勤務し、釧路の発展に貢献した人物です。
暢さんは大阪の女学校を卒業。
東京に出て、1939年に日本郵船に勤める小松総一郎氏と結婚しました。
しかし、総一郎氏は戦争から帰還後、病気で亡くなっています。
1946年、戦後の混乱期に高知新聞社が初めて採用した女性記者2名のうちの1人として入社。
配属先は『月刊高知』の編集部で、ジープを乗り回しながら焼け野原を駆け回って
取材を行うなど、非常に行動的でアグレッシブな記者として知られていました。
一杯のおでんが運んだ愛──やなせたかしと暢さんの出会い
やなせさん27歳、暢さんは1歳年上の女性記者で、机を並べて働いていたそうです。
ふたりの距離が縮まったきっかけは、東京出張中に男性陣が食中毒になった際、
暢さんだけが無事で、献身的に看病したこと。
やなせさんはその姿に心を打たれ、ひと目ぼれをしたと語っています。
六畳一間の愛──やなせたかしと暢さん、東京で始まった夫婦のかたち
後に暢さんは上京し、「東京で待ってるから」とやなせさんに告げます。
やなせさんも彼女を追って東京へ行き、1947年に結婚。
六畳一間のアパート生活が始まりました。収入が安定しない中で、
暢さんは「私が働いて食べさせるから」と支え続けました。
ドキンちゃんとアンパンマンのように──やなせたかし夫妻の物語
子どもはいませんでしたが、「アンパンマンが私たちの子どもだ」とやなせさん。
暢さんの勝ち気な性格は、ドキンちゃんのモデルとも言われています。
晩年、暢さんは乳がんで亡くなりましたが、最期はやなせさんの手を握って旅立ったそうです。
ふたりの深い絆は、今もやなせ作品の中に息づいています。
たかしが描いた優しさと愛のヒーロー~
「人間に優しいヒーロー」というアイデア
優しさを持つヒーローの誕生
やなせたかしさんが『アンパンマン』を
生み出すきっかけとなったのは、
彼が抱いていた「人間に優しいヒーロー」
というアイデアです。

従来のヒーローキャラクターは
強くて恐ろしい敵を倒す存在が多く、
どちらかというと暴力的な印象を与えていました。
やなせさんは、そうした従来のヒーロー像とは異なる、
「困っている人を助けるヒーロー」を
描きたかったのです。
アンパンマンの優しさと人間愛
そのため、アンパンマンは人々を助けることを最優先に考えました。
危機に直面した時でも暴力を使いません。
優しさと愛で解決しようとするキャラクターが誕生しました。
特に、アンパンマンの特徴的な能力である「顔を分け与える」という行動には、
「自分を犠牲にしてでも他人を助ける」という、深い人間愛が込められています。
2.なぜ「あんぱんまん」だったのか?
やなせたかしさんがアンパンマンを主人公に選んだのは、「本当に困っている人を救うヒーロー」を作りたかったからです。
「アンパンマン」誕生の背景
戦争体験が大きく影響している
- やなせさんは若い頃、第二次世界大戦を体験しました。
- 飢えや貧困に苦しむ人々を目の当たりにし、「正義とは何か」を真剣に考え続けるようになったのです。
- 彼は後にこう語っています。
➔「飢えた人を救うことこそが、本当の正義だと思った」
なぜ「あんぱん」なのか
- 飢えた人にとって一番嬉しいものは「食べ物」です。
- だから、「自分の顔をちぎって食べさせるヒーロー」という設定にしたのです。
- この発想から「アンパンマン」が誕生しました。
なぜ饅頭(まんじゅう)マンではなくアンパンマンだったのか?
アンパンは「特別な食べ物」だった
- やなせたかしさんが若い頃(昭和初期~戦中戦後)、
アンパンは「特別な日のお菓子」「ごちそう」でした。 - 庶民にとって身近でありながら、ちょっとした「夢」や「贅沢」の象徴だったのです。
- だから「困っている人に渡すのにふさわしい、心も体も温まる食べ物」としてアンパンが選ばれました。
饅頭は和菓子寄りで「主食感」が薄い
- 饅頭(まんじゅう)は主にお茶菓子や甘味として楽しまれるもの。
- 一方アンパンは「パン」という主食寄りのイメージもあり、
飢えをしのぐ=生命を支える、というテーマにマッチしていた。
温かみ・素朴さのイメージ
- アンパン=焼き立て、ほかほか
→「温かい心」を象徴するのにぴったりだった。 - 饅頭だと「冷たい」「保存食」的なイメージがやや強くなってしまうため、
物語の「温もり」を伝えるにはアンパンの方が自然だった。
やなせたかしさん自身も語っています
「アンパンは、あったかくて、甘くて、空腹のときに食べたら、
いちばんうれしい食べ物だと思ったんです。」
まとめ
つまり、
アンパン=飢えを救うための「やさしさ」と
「特別な幸せ」の象徴だったから、
「アンパンマン」になったんですね。
やなせたかしさんの言葉
「本当の正義とは、飢えた人に食べ物を与えることです。
それが、アンパンマンのすべてです。」
2. 絵本としてのスタート
『アンパンマン』が最初に登場したのは、1973年に発表された絵本『アンパンマン』。
この絵本は、やなせたかしさんが自らの経験や想いを込めて描いたものです。
アンパンマンというキャラクターが子供たちに向けて「困った人を助ける」姿を描いています。
やなせさんは、この絵本を通して子供たちに優しさ、友情、
そして助け合いの大切さを伝えたかったのです。
『アンパンマン』のキャラクターは、その後も多くの仲間たちと一緒に、
さまざまな冒険を繰り広げるようになりました。
3. アニメ化と大ヒット
絵本の成功を受け、1988年にはテレビアニメとして放送が開始されました。
このアニメが放送されると、たちまち大ヒットとなり、
今では日本を代表する子供向けキャラクターとなりました。
アニメ化の際には、アンパンマンのキャラクターを
より多くの子供たちに親しみやすくするために、
さまざまなキャラクターが追加されました。
例えば、アンパンマンの仲間であるジャムおじさんやバタコさん、
ドキンちゃん、しょくぱんまんなど、個性的で魅力的なキャラクターたちが登場しました。
4. アンパンマンの誕生背景とやなせたかしさんの思い
『アンパンマン』が誕生した背景には、やなせたかしさんの戦争経験や
人道的な思いが影響しているとも言われています。
やなせさんは、戦争の影響を受けていた世代であり、
子供たちには「優しさ」を伝えたいという強い気持ちがありました。
また、やなせさん自身が苦しい時期を経て成功を収めたことも、
キャラクターに対する深い共感や愛情を生む一因となりました。
このように、『アンパンマン』はやなせたかしさんの人間的な思いや、
優しさを伝えたいという強い想いが込められた作品です。
そして、そのメッセージは今も多くの人々に伝わり続けています。
やなせたかしを支え続けた妻の愛がアンパンマン誕生へと
やなせさんが『アンパンマン』を生み出したのは50代です。
それまではヒット作に恵まれず、苦しい時期が続きました。
それでも千尋さんは彼を見放しませんでした。
『アンパンマン』が人気になると、多忙を極めるようになりました。
その中でも、小松暢(こまつ のぶ)さんは変わらず支え続けました。
やなせさんは「妻がいなければ、ここまで来られなかった」と語っています。
彼にとって小松暢(こまつ のぶ)さんは、最も信頼できるパートナーでした。
支え合う愛 ― 小松暢が乳がん発覚、最後まで寄り添った日々
妻のがん発覚と後悔
1988年秋、暢さんの体調不良に気づきながらも、やなせさんは多忙を理由に病院への
同行を後回しにしてしまいました。
その結果、病状は進行し、両方の乳房を切除する手術が必要となり、
医師からは「余命3か月」と宣告されました。やなせさんは、病院の屋上で一人立ち尽くし、
取り返しのつかない後悔と悲しみに打ちひしがれたと述懐しています。
1989年の奇跡的な回復
1988年、やなせたかしさんの妻・小松暢(こまつ のぶ)さんは乳がんと診断され、
医師から「余命3か月」と宣告されました。肝臓への転移も確認され、
手術は不可能とされる厳しい状況でした。しかし、1989年には奇跡的な回復を遂げ、
日常生活に復帰するまでに至りました。
回復のきっかけ:丸山ワクチンとの出会い
やなせさんの友人である漫画家・里中満智子さんの紹介により、抗がん剤「丸山ワクチン」の
存在を知りました。医師からは「水のようなもので効果は期待できない」と
否定的な意見を受けましたが、やなせさんは藁にもすがる思いで、暢さんにこの治療を勧めました。
暢さんは、女子医大や近隣の四谷病院に通院し、AB液を一日おきに接種する治療を開始しました。
その結果、体重が増加し、血色も改善されるなど、目に見える回復が見られました。
やなせさんは「アンパンマンの遺書」の中で、この治療が妻の体調に良い影響を与えたと
述べています。
社会復帰と夫婦の時間
回復後、暢さんは日常生活に戻り、1991年11月には天皇・皇后両陛下主催の園遊会に
夫婦で出席するまでに至りました。やなせさんは、園遊会での出来事を「アンパンマンの遺書」で
詳細に綴っており、暢さんの回復が夫婦にとってどれほど喜ばしいものであったかが伝わってきます。
1993年:再入院と最期
1993年、やなせたかしさんの妻・小松暢(こまつ のぶ)さんは、乳がんとの長い闘病生活の末、
再び体調を崩し、11月に女子医大病院に再入院しました。
放射線治療の影響で貧血が進行し、輸血が必要な状態となりましたが、もともと血管が非常に細く、
内出血を起こしやすい体質であったため、治療は困難を伴いました。
入院中、暢さんは輸血によって一時的に元気を取り戻し、看護師や見舞客にアンパンマングッズを
配るなど、明るい一面を見せていました。
しかし、11月22日午後4時過ぎ、頭部の血管が破裂し、意識を失ったまま息を引き取りました。
享年75歳でした。
やなせさんは著書『アンパンマンの遺書』の中で、暢さんの最期について
「ほとんど何の苦しみもなく息が絶えた」と記しています。彼女の葬儀は内密に行われ、
身内だけで執り行われました。やなせさんは、暢さんの遺骨を東京と高知に分骨し、
「いつでも会いに行けるように」との思いを込めていたとされています。
涙を隠して ― やなせたかし、妻を支えた日々
暢さんの病気がわかったとき、やなせさんはものすごくショックを受けました。
でも彼は、暢さんの前では絶対に弱音を吐かなかったんです。
- できる限り明るくふるまう
- 看病を最優先にし、自分の仕事をセーブする
- 少しでも暢さんが元気を出せるように、楽しい話をしたり、冗談を言ったりした
また、病院への付き添いや、食事や身の回りの世話なども、
やなせさん自身が積極的に行ったといわれています。
やなせさんは心の中で泣きながらも、暢さんの前では
「いつも通りの夫」であろうと必死だったんです。
かけがえのない支え ― やなせたかしと暢さんの永遠の絆
暢さんは、やなせさんの存在を心から信頼していました。
闘病中も、やなせさんがそばにいてくれるだけで安心できる、と語っていたそうです。
やなせさんも、暢さんのことを「かけがえのない存在」だといつも話していました。
彼は、暢さんを失った後にこう語っています。
「ぼくは、暢がいなければ今の自分はいなかった。」
「彼女がいつも支えてくれたから、好きな仕事を続けられた。」
暢さんの死後、やなせさんは深い喪失感と向き合いながらも、
「アンパンマン」というキャラクターを通じて、誰かを助けること、
励ますことを自分の使命として生き続けました。
それは、亡き暢さんへの愛と誓いでもあったのだと思います。
アンパンマンがくれた光 ー 喪失からの再生
やなせたかしさんは、最愛の妻・暢さんを乳がんで亡くし、天涯孤独に。
家事も生活全般も妻に頼っていました。深い喪失感に襲われ、夜も眠れず、
体重も大きく減ってしまった。死を意識し、自宅にある良書や妻が遺したお金を寄付するなど、
静かに最期の準備を進めていたという。
しかし、思いがけず自らが生んだキャラクター、アンパンマンの存在に救われ、
生きる力を取り戻す。「アンパンマンに助けられた」と語るやなせさんは、
妻の死を3か月間公表せず、
交流のあった人々ですらその事実を知らなかったほど静かに悲しみを抱えていた。
しかし、彼は創作を続け、94歳で亡くなるまで作品を生み出しました。
千尋さんの影響は、やなせさんの人生観や作品に深く刻まれています。
彼女なしでは、『アンパンマン』も多くの作品も生まれなかったかもしれません。
まとめ
やなせたかしさんと小松暢(こまつ のぶ)さんの関係は、深い絆で結ばれていました。
互いに支え合い、創作を通じて影響を与え合いながら生きたのです。
やなせさんの作品には、生き方や価値観が反映されています。
その根底には、千尋さんとの強い絆がありました。
もし、今柳瀬さんが生きていらしたら、中東やウクライナ様々な紛争を抱えた現代を
どう思われているでしょうか。
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やなせたかしさん関連ホームページ
やなせたかしさん個人の公式ホームページは存在しませんが、彼の業績やプロフィールについては、以下のサイトで詳しく紹介されています。
- アンパンマン公式ポータルサイト:やなせたかしさんの紹介ページがあります。
- 香美市立やなせたかし記念館:やなせたかしさんの生涯や作品を展示している記念館の公式サイトです。
これらのサイトをご覧になることで、やなせたかしさんの詳細な情報を得ることができます。
弟・柳瀬千尋さんについても調べています。
覗いてみてください。
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投稿を編集 “やなせたかしと弟・柳瀬千尋ーアンパンマンは“兄弟の絆”” ‹ モミジのボッチ散歩 — WordPress
やなせたかしさんの母・登喜子さんについても書いています。
覗いてみてください。
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