蔦屋重三郎と写楽の関係に迫ります。大河ドラマ「べらぼう」では唐丸が歴史に残る浮世絵師になるだろう。もしかして写楽か?問う言う声も。江戸時代の出版界で名を馳せた蔦屋重三郎は、浮世絵の発展にも大きく貢献した人物。
彼が世に送り出した作家や絵師の中でも、
特に謎めいた存在として知られるのが東洲斎写楽です。
写楽はわずか10カ月の間に約140点もの役者絵を発表し、
突然姿を消した浮世絵師ですが、
その背後には蔦屋重三郎の強い影響がありました。今回は、蔦屋重三郎と写楽の関係に迫ってみましょう。
蔦屋重三郎が仕掛けた「写楽プロジェクト」
東洲斎写楽の作品が初めて登場したのは
寛政6年(1794年)5月のこと。
江戸の有名な歌舞伎役者たちを題材にした
大首絵(バストアップの肖像画)が
一斉に発表されました。
これらの版元(出版社)を務めたのが、蔦屋重三郎です。

蔦屋は、すでに喜多川歌麿や葛飾北斎とも
関わりがあり、
才能ある絵師を見出す目を持っていました。
そして、当時の浮世絵界に新風を吹き込むために、
まだ無名だった写楽をプロデュースしたと
考えられています。
写楽のデビューとその作風
東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)は、
江戸時代後期の浮世絵師で、
特に役者絵で知られています。
彼の生涯については謎が多く、詳細はほとんどわかっていません
写楽のデビュー作は、「市川蝦蔵の竹村定之進」「大谷鬼次の江戸兵衛」など。
実在の歌舞伎役者を力強く描いた役者絵。
特徴的なのは、従来の美化された役者絵とは異なり、
デフォルメの効いた表情や劇的な構図が採用。
これは蔦屋の戦略。
「今までにない大胆な役者絵を世に出せば話題になる」と考えた可能性があります。
事実、写楽の作品はすぐに評判となり、
その独特な画風は賛否両論を巻き起こしました。
写楽の浮世絵は、
寛政6年のデビューから翌年の寛政7年(1795年)1月までの約10カ月間に約140点が刊行。しかし、それ以降、写楽の名は忽然と消えてしまいます。
写楽の絵を見るには
2025年4月22日から6月15日まで、東京国立博物館 平成館で特別展「蔦屋重三郎 コンテンツビジネスの風雲児」が開催されます。
tnm.jpこの展覧会では、写楽の代表作である「三代目大谷鬼次の江戸兵衛」などが展示される予定です。東京まで足を延ばす機会があれば、ぜひご覧ください。
突然の失速と写楽の謎の消滅
なぜ写楽は消えたのか?
いくつかの理由が考えられます。
- 商業的な失敗
- 初期の作品は話題を集めましたが、
後期の作品になると勢いが衰え、売れ行きが伸びなかった可能性があります。
蔦屋も出版を続けることが難しくなったのかもしれません。
- 初期の作品は話題を集めましたが、
- 役者たちの反発
- 写楽の作品は、役者たちの顔を誇張して描いており、
それが不評を買ったとも言われています。
蔦屋は、歌舞伎界との関係を悪化させないよう、
写楽の活動を控えたのかもしれません。
- 写楽の作品は、役者たちの顔を誇張して描いており、
- 写楽の正体と身分的な問題
- 写楽の正体については諸説ありますが、
有力な説の一つに阿波藩のお抱え能役者・斎藤十郎兵衛説があります。
もし彼が本当に武士階級の人間だったとしたら
浮世絵を描くことが発覚して問題になり、
活動をやめざるを得なかった可能性もあります。
- 写楽の正体については諸説ありますが、
蔦屋重三郎の先見性と写楽の短命な挑戦
蔦屋重三郎は、常に新しい文化を生み出そうとする挑戦者。
写楽の役者絵プロジェクトもその一環。
彼の鋭いプロデュース能力が発揮された例と言えます。
しかし、写楽の画風は当時の江戸の美意識に合わず、
商業的にも成功を収めることができませんでした。
それでも、蔦屋が仕掛けたこの短期間の実験は、
後に「写楽の天才的な才能」として評価されることになります。
もし蔦屋重三郎がもう少し長く生きていたら、
写楽は再び世に出る機会を得ていたかもしれません。
まとめ——写楽の背後にいた名プロデューサー、蔦屋重三郎
- 写楽は蔦屋重三郎によって世に出された浮世絵師
- 彼の役者絵は大胆で革新的だったが、賛否が分かれた
- 10カ月で活動を終え、以降の消息は不明
- 蔦屋の先見性がなければ、写楽は歴史に残らなかったかもしれない
