「光る君へ」で36話。
道長とまひろの関係バレたと、冷や汗もの。
敦成親王(後の後一条天皇)の誕生50日目を祝う「五十日の儀」
実はこのシーンは「紫式部日記」に描かれ、史実にもとずいている。
祝いの席で紫式部が和歌を詠んだ後
藤原道長が返歌を読んだときはドキドキ。
しかも、その後、
源倫子が席をたつシーンに
視聴者はヤバ、
さらにドキドキ。
ここでは視聴者冷や汗ものの
「五十日の儀」から
感考えられる紫式部と藤原道長の関係を
調べてみました。
藤原道長が催した敦成親王(後の後一条天皇)の誕生50日目を祝う「五十日の儀」(いかのぎ)とは
道長の孫である敦成親王(後の後一条天皇)の誕生50日目を祝う、
「五十日の儀」(いかのぎ)は
重要な儀式の一つとして行われました。
特に藤原道長が行った「五十日の儀」は、
その歴史的意義も大きく、
後の時代に語り継がれています。
この儀式は、1008年(寛弘5年)11月1日に行わました。
藤原道長と紫式部の関係に垣間見える「五十日の儀」
「五十日の儀」は、
後の後一条天皇となる敦成親王の誕生50日を祝う儀式で、
平安時代の宮廷生活を知る上で
非常に貴重な記録が残されています。
この儀式において、
特に注目すべきは藤原道長と紫式部の間で
行われた和歌のやり取りです。
これにより、
二人の関係が単なる主従関係以上のものだった
可能性が示唆されています。
和歌のやり取りから見える特別な関係
『紫式部日記』によると、
この儀式の最中、
藤原道長は紫式部に和歌を詠むよう求めました。
紫式部がその場で詠んだ和歌に対して、
道長はすぐに返歌を詠み、
二人の間で優雅なやり取りが展開されました。
この和歌の交換は、
単なる礼儀的なやり取り以上のものであり、
道長が紫式部に対して特別な関心を
抱いていたことを示唆しています。
五十日の儀で交わされた紫式部と藤原道長の和歌
平安時代の貴族たちが生活の中で文化を楽しみ、
知的なやり取りを繰り広げた場面として、
「五十日の儀」はその典型です。
特に、この儀式の中で交わされた
紫式部と藤原道長の和歌のやり取りは、
当時の洗練された感性と礼儀作法を
反映したものとして注目されています。
紫式部が詠んだ和歌
いかにいかが かぞへやるべき 八千歳の あまり久しき 君が御代をば
この和歌の意味は、
「この嬉しい五十日の祝いに、
どのようにして数えたらよいのでしょう。
若宮様(敦成親王)の永遠なる生命の年数を……」
という願いを込めたものでした。
紫式部は、
若宮の長寿と繁栄を讃える気持ちを巧みに表現しています。
八千歳(やちよ)という言葉は、
無限の長寿を象徴するものとして使われ、
貴族たちの間で非常に崇高な表現とされていました。
藤原道長の返歌
これに対して、藤原道長は次のような返歌をしました:
あしたづの よはひしあらば 君が代の 千歳の数も 数へとりてむ
この和歌の意味は、
「もし私が長寿であるならば、
君の御代(若宮の治世)が
千歳に達する年数を数えることができるでしょう」
というものです。
道長は、自身の長寿を願いながらも、
敦成親王の未来を祝う気持ちを和歌に込めました。
千歳(ちとせ)は、やはり長寿を示す言葉で、
平安時代の貴族にとって
未来への期待や祈りを表現する上でよく使われました。
和歌に込められた貴族の感性
和歌のやり取りと平安貴族の知的遊び「歌合わせ」
この和歌のやり取りは、
平安時代の貴族社会における知的な遊びである
「歌合わせ」の一環であり、
単なる言葉の交換以上の意味を持っていました。
和歌を通じて、感情や祈り、願いを共有することで、
彼らは互いの感性を称え合い、
社会的なつながりを強めていきました。
紫式部と藤原道長の和歌が示す文化的交流の深さ
紫式部と藤原道長が交わしたこれらの和歌は、
当時の貴族の間で行われていた
文化的な交流の深さを象徴しています。
和歌を通じて繊細な感情を伝えることで、
彼らは高度な知的遊びと礼儀を実践していたのです。
「五十日の儀」で源倫子が途中退出
はい、事実です。敦成親王(後の後一条天皇)の
「五十日の儀」において、
源倫子が退出したことは『紫式部日記』に記されています。
この出来事は、藤原道長の発言に
源倫子が不愉快を感じたためとされています。
源倫子が「五十の儀」を退出した背景
敦成親王の「五十の儀」において、
源倫子が途中で退出した理由は、
夫である藤原道長の発言に不快感を抱いたためでした。
宴の席で酔っていた道長は、
「私は中宮の父として恥ずかしくないし、
中宮も私の娘としては悪くない。
中宮の母(倫子)も良い夫を持って満足しているだろう」
と戯れました。
この発言が、
道長の功績を誇示し、
倫子の立場を軽んじる内容であったため、
倫子は機嫌を損ね、
その場を立ち去ったのです。
源倫子の退席と夫婦間の緊張
道長と紫式部の関係が周囲から注目されたことも、
特に源倫子にとっては嫉妬や不満を
引き起こす要因になっていた可能性が伺えます
源倫子の行動は、
夫婦間の緊張を示しており、
道長と紫式部の関係が
単なる主従関係や職務上のものでなかった
可能性を暗示しています。
この出来事を通じて、
道長が紫式部に対して抱いていた感情が、
周囲にも影響を及ぼしていたことがわかります。
道長と紫式部の関係は恋愛だったのか?
歴史学者の中には、
道長が紫式部を妻妾にしようとしたのではないか
という説もあります。
しかし、これについての確証はなく、
あくまで推測の域を出ません。
ただし、道長が紫式部を
非常に高く評価していたことは明らかです。
彼女の文学的な才能や知識を高く買い、
その存在を重んじていたことは、
五十日の儀での和歌のやり取りや、
紫式部の地位からも理解できます。
敦成親王の誕生出産の祝いの席から見えてくる藤原道長と紫式部の関係
「五十日の儀」における藤原道長と紫式部の和歌のやり取りは、
二人の関係が単なる上司と部下、
または政治的な繋がりだけではなく、
道長が紫式部に対して特別な関心を
抱いていたことを示しています。
源倫子の退席という出来事を通じて、
宮廷内の緊張や夫婦間の微妙な力関係も
浮き彫りにされています。