平尾誠二? ミスターラグビー 山中伸弥教授炉の友情ドラマ化

ブログ

ラグビー界の伝説“ミスター・ラグビー”平尾誠二さんと、
「ヒトiPS細胞」の研究でノーベル生理学・医学賞を受賞した山中伸弥教授。
異なる分野で活躍する2人の知られざる友情物語をドラマ化。


平尾誠二さん。何をした人?ーファンの皆さんごめんなさい。
モミジのように、名前を聞いたのは初めてという人もいるかも
ラグビーが今ほど人気のあるスポーツではなかった時代、
ラグビーとラグビーの普及に努めた人物。
にわかラグビーファンでしかないモミジも
少しだけその生涯に迫ってみました。

ミスター・ラグビー 平尾誠二さんとは

平尾誠二さんは、日本のラグビー選手であり、
日本代表監督や神戸製鋼ラグビー部GM兼総監督などを歴任。
ラグビー界に、大きな功績を残した人物。
しかし53歳で他界

ミスター・ラグビーの始まりは幼少期

平尾誠二は1963年1月21日に京都府京都市南区で生まれました。
小学校時代は野球をしていましたが、
中学に進学するとラグビーをするように。
理由は「野球部は部員が多くて下積みばかりしていた。
そこでラグビー部を見たら、12~13人程度、
先生もとてもいい先生で楽しそうに練習をしていたから

確かにそういう時代でしたね。
ラグビーってどんなスポーツ?という人がたくさんいて。

うちの高校でもすくない人数で練習していました。

伏見工業高校でのミスターラグビーとしての輝かしいキャリアの始まり

平尾は伏見工業高校に進学し、ここで彼のラグビーキャリアに大きな転機が訪れました。
伏見工業高への入学のきっかけは山口良治氏
当時は伏見工業高はワルの集まりだったため両親は反対したが、
平尾はそれを振り切り入学。
同校1年の京都府大会決勝で花園高に敗れた際は、

悔しさのあまり受け取った準優勝トロフィーを投げ捨てて帰る。

しかし翌年全国大会初出場を果たし、3年生の時の全国大会で同校が初優勝。

凄い負けず嫌いだねー。

山口良治氏とは

山口 良治(やまぐち よしはる、1943年2月15日 – )は
日本のラグビー指導者で元日本代表。

京都市立伏見工業高等学校ラグビー部総監督であり、
1984年のTBS系土曜21時台のテレビドラマ『スクール☆ウォーズ』(馬場信浩原作)の主人公の滝沢賢治のモデルとなった教師でもあった

『スクール☆ウォーズ』言われつと、ラグビーを知らない私でも
思い出すドラマ。あのドラマを見てラグビーに興味を持った人も多いかも。


大学時代とラグビーへの情熱

同志社大学で学び、ラグビーを続けた平尾は、大学選手権で3連覇を達成するなど、その実力を示しました。
また、彼のラグビーキャリアにおけるセンターポジションの役割に焦点を当てることになりました。

イギリスへのラグビー留学 ラグビー留学? 平尾誠二の挑戦

同志社大学を卒業後、平尾は新たな挑戦を求めてイギリスへ。

イギリスでラグビーをプレーしながら、

デザイン学校の入学試験に取り組みました。

ところが、
ラグビー選手としてファッション雑誌に登場したことが、アマチュア規定に違反するとされ、日本代表候補から外れてしまったのです。この瞬間が平尾にとっての大きな挫折でした。

平尾は立ち上がり、アマチュア資格の停止を解除するために奮闘。

神戸製鋼の亀高素吉専務の声に導かれ、新たなチームでのキャリアが再び始まることになりました。

イギリスでのラグビー留学は、平尾誠二のキャリアにおける重要な転機であり、彼の情熱と決断の証です。挫折から立ち上がり、新たなチャンスを掴んだ彼の物語は、ラグビー愛と情熱の象徴と言えるかも。

それにしても、ファッション誌に登場したら日本代表から外れるなんて頭硬すぎ

神戸製鋼入社とリーダーシップの発揮

アマチュア規定による挫折の後、平尾は神戸製鋼に入社
神戸製鋼でのキャリアにおける彼の主将としての
役割とリーダーシップを発揮。

1986年、神戸製鋼に入社。
日本選手権で7連覇を達成
(初優勝時から3連覇時までは主将、7連覇時は主将代行を)。
また、国内チーム相手でゲームキャプテンを務めた試合で
は負けた事が一度だけ
(同志社大学時代の日本選手権対新日鐵釜石戦)
という抜群のキャプテンシーを発揮。
平尾は主将として「ボールをつないでトライを取るラグビー」を掲げ、
強いフォワード選手に対しタイミングよくボールを出すことを求め、
ラグビーの球技的側面を強調することで得点力を高めた。

ラグビーワールドカップへの出場

平尾のラグビーキャリアの中で、ラグビーワールドカップへの出場は特に重要。


彼がワールドカップで重要な役割や成果を果たした。
特に第2回大会での日本代表初勝利をもたらす

ラグビーワールドカップには、
第1回(1987年)、第2回(1991年)、第3回(1995年)にそれぞれ出場。
特に第2回大会では、日本のワールドカップ初勝利(対ジンバブエ戦)の原動力として活躍。
その後一度は代表を退くが、
第3回大会に向けてのチーム強化の一環として臨時コーチとして招聘され、
その後代表選手として本戦に出場


ミスター・ラグビー 平尾誠二さん監督としてのキャリア

現役引退後、平尾は日本代表の監督に就任し、
平尾ジャパン」として新たな章を切り開きました。


1999年のワールドカップでは、日本代表の監督として出場し、
ウェールズ、イングランド、フランス、スコットランド、アイルランドの5カ国で開催された大会に参加。
平尾さんは、競技人口の減少を背景に「平尾プロジェクト」を立ち上げ、
日本代表選手を発掘するコンセプトを掲げました

当時ラグビーは国民的に広く親しまれるスポーツではなかったのですね、
こうした人たちの努力でラグビーワールドカップの人気があるのですね。

ラグビー引退と新たな役割

ラグビー選手としてのキャリアが終わった後、
平尾は新たな役割に挑戦、
スポーツと地域社会の振興を目指すNPO「スポーツ・コミュニティ・アンド・インテリジェンス機構(SCIX)」を設立。

平尾誠二と山中伸弥の友情はラグビーの日本での発展へ

その平尾さんが10月20日、53歳の若さで亡くなった。
2019年に日本で初めて開催されるラグビーワールドカップを見届けずに
この世を去らなければならないとは、どんなに無念だったことだろう。
彼がいなければ、今日のラグビー人気はなかったかもしれない。
これの功績は永遠に受け継がれていくことでしょう。

タイトルとURLをコピーしました