『虎に翼』伊藤沙莉さん主演朝ドラと原作モデル 三淵嘉子とは?

朝ドラ

2024年前期朝ドラ「虎に翼」の主演は伊藤沙里さん。
楽しみです。庶民的でどこにでもいる人のようであり
そんな彼女の内側から湧き出てくるまっすぐなパワーが大好き
以前にも伊藤さんはリーガルものに近いドラマ見ましたが。
女性初の弁護士というそれまでにはなかった道を
パワフルに開拓していく彼女の姿が目に浮かぶようで楽しみです。

次の朝ドラ『虎に翼』は主演は伊藤沙莉さんが演じる三淵嘉子とは

伊藤沙里さんの最近の活躍は目覚ましいですね。
まっすぐに何かに立ち向かっていく役が多いですね。
そして素晴らしい演技力で見事に演じ切っています。
そんな彼女が朝ドラで主演のモデル
三淵嘉子(みぶち よしこ)は、
日本初の女性弁護士の1人であり、
初の女性判事及び家庭裁判所長
まさしく日本の法曹界への女性進出の先駆者
伊藤さんにピッタリの役だと思います。

早いスタート:シンガポール生まれからの道

1914年11月13日、シンガポールで生まれた三淵嘉子さん。
彼女の名前は、シンガポールの漢字表記に由来して「嘉子」と名づける
彼女の旧姓は武藤で、父親は台湾銀行に勤務。

父の民主的な考え方が彼女の生き方の原点


父親は、家庭は民主的な価値観を持っていました。
幼い嘉子には、普通の嫁になるのではなく
男性と同じように政治や経済を理解し
専門職に就くことを奨励したそうです。

父親は言葉「ただ普通のお嫁さんになる女にはなるな、
男と同じやうに政治でも、経済でも理解できるようになれ、
それには何か専門の仕事をもつ為の勉強をしなさい。医者になるか弁護士はどうか

モミジ
モミジ

この当時、このような女の子にこのようなアドバイスをする父親はこの人以外にいたでしょうか。海外での仕事でしていたとはいえ、民衆主義とは何か?について理解していたというのはすごすぎ。

教育とキャリア:法学部卒業と初の女性弁護士

三淵嘉子さんは、優れた教育を受けました。
彼女は東京女子高等師範学校附属高等女学校を卒業し、
その後明治大学専門部女子部に進学しました。
1935年には明治大学法学部に入学し、
1938年に卒業しています。
そして、その同じ年に高等文官試験司法科試験に合格し、
1940年に弁護士として開業しました。
三淵嘉子さんは、明治大学の卒業生であり、
中田正子さんと久米愛さんと共に、日本初の女性弁護士の1人となりました。

裁判官のひまわりバッジ

当時の大学

女性が弁護士となることは極めて珍しく、
男性中心の世界。
1933年に弁護士法が改正され、
女性も弁護士になれる道が開かれました。
三淵嘉子さんは、明治大学専門部女子部法科に入学し、法学を学びました。
この学部は女性の弁護士を育てるために設立され、唯一の選択肢でした。
当時の学び舎では男女別々に授業が行われ、
女子学生たちは自分たちの勉強を男子学生と同じ場所で行っていました。
その中でも女性学生の成績は優秀で、男子学生を驚かせることもありました。

女性初の法曹界への飛躍: 三淵嘉子の歴史的瞬間

1935年11月1日、日本の司法界に革命が訪れました。
三淵嘉子さんを含む3人の女性が、
高等文官試験司法科に合格した瞬間で、
これは女性初の快挙でした。新聞も大きく取り上げました」嘉子さんは、
女性の地位向上と不幸な人々の支援を通じて
社会に貢献することを希望し、
その決意と情熱を示しました。

この歴史的瞬間は
女性が法曹界で成功し、
社会的な変革をもたらすために果敢に一歩を踏み出すことの証

裁判をイマージする天秤と六法文書

大きな損失:最初の夫の戦病死

1946年、彼女の最初の夫である和田芳夫さんが戦病死し
彼女は一人で立ち上がりました。彼女の信念と意志は、
その後のキャリアに大きな影響を与えました。

三淵嘉子の波乱に満ちた私生活

1941年11月5日、嘉子の私生活は新たな章を迎えました。
彼女は、和田芳夫さんと結婚し、1943年1月には第一子の芳武君が誕生しました。
しかし、この幸せもつかの間で、芳夫さんはわずか1年半後、
1944年6月に徴兵されてしまいました。

戦争で逃げ惑う女性と子供

この時期、日本は第二次世界大戦の最中であり、
空襲が頻発しました。嘉子は幼い芳武君を連れて、
空襲から逃れるために家を離れ、
福島へ疎開せざるを得ない状況に直面しました。
彼女の生活は非常に苦難に満ちたものでした。

そして、戦争が終結した1946年5月23日、嘉子にとっては一つの悲劇が訪れました。
芳夫さんは上海から引き揚げる途中、長崎で病に冒され、その生涯を閉じました

裁判官としての道:司法省から最高裁まで

1947年、三淵嘉子さんは裁判官としての道を歩むために
司法省に採用願いを提出しました。
その後、最高裁判所の発足に伴い、最高裁民事局局付として、
また家庭局の初代局付としての職に就きました。
1949年、東京地裁判事補に任命され、彼女は石渡満子さんと共に、
初の女性裁判官としての歴史を作りました

女性裁判官

再婚と家庭裁判所長:三淵姓への変更

1952年、名古屋地方裁判所で初の女性判事としての地位につき、
彼女のキャリアはますます輝きを増していきました。
1956年には、裁判官の三淵乾太郎さんと再婚し、
三淵姓を名乗るようになりました。

日本初の女性家庭裁判所長

彼女はその後も法曹界でのキャリアを積み重ね、
1972年には新潟家庭裁判所で初の女性家庭裁判所長となりました。
その後、浦和家裁や横浜家裁の各所長を務め、法の下での公平な司法を推進しました。
横浜家裁の所長時代、薄汚れていた調停室の壁を明るい白に塗りかえ、
壁に絵をかけ、カーテンを新調し、
昼休みには廊下に静かな音楽を流した。
家庭問題に深刻な悩みを抱えた人々の心を少しでも和ませようとの心遣いからであった

きめ細やかなだったのですね。思いやりのある女性だったのですね

弁護士としての後半生

1979年に退官した後も、嘉子は弁護士としての道を歩み、
法の専門知識を活かしました。
彼女の生涯と献身的な仕事は、
日本の法曹界における女性の地位向上に大きな影響を与えました。

永遠の別れ:1984年の逝去

1984(昭和59)年5月28日死去、享年69歳。
6月23日に青山葬儀所で行われた葬儀と告別式に
2千人近い人が訪れて、別れを惜しんだ。

2千人ってすごですね。彼女がいかに人望があったかよくわかりますね。

『虎に翼』伊藤沙莉さん主演朝ドラ。モデルの三淵嘉子の遺産と日本の法曹界に与えた影響

彼女の遺産は、女性の法曹活動への道を切り拓いたこ。

彼女の存在が、女性が法律家や裁判官としてのキャリアを追求する際に、
法的な障壁を取り払い、平等な機会を提供しました。
その影響は日本の法曹界にとどまらず、社会全体に広がり、
女性の権利と平等に対する意識を高めることになりました

三淵嘉子の勇気と決意は、
今日の日本における女性の法律家や裁判官たちにとって、
将来を照らす光になっているといえるかもしれません

いまだに女性が遅れている職場も日本んは少なくありません。
モミジがこれから歴に残るようなスゴイ人になれるとは微塵にも思いませんが、
伊藤さんを見ていると、なんか妙にアワーがわいてきます。
エネルギッシュにすべての人が、あらゆる分野で活躍す勇気を与えてくれそうですね。


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